南の小言

100年健康を作るPTの日常

生きる

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今朝、一人の利用者さんが亡くなりました。元々リハビリも介入していた若い方でしたが、ここ2.3週間で急速な状態悪化を認め、身体の自由は日を追うごとに奪われていきましたが、治療や入院は全拒否。もう生きること諦めている状態でした。

 

先週の水曜日までは私と普通に会話をしており、「次来たら俺の使ってないスーツをあげるよ」と言ってくれていました。素直にはなれないけど根はすごく良い人、そんな方でした。やはり病院のリハビリ室での関係性と自宅でリハビリをしている関係性は全く違います。完全な1対1の状態での会話一つ一つが、信頼関係を築く大きな一歩になります。

 

培ってきた信頼関係が一気に崩れてしまう感覚に陥るのが利用者さんの逝去。とても辛いものがあります。

 

そんな彼が生きる気力を無くし始めたのは1ヶ月ほど前の転倒からでした。予定通り私が訪問した時、彼は床に倒れており起き上がることができない状態でした。滑って転倒した様です。怪我は無かったものの、そこから急に下肢に力が入りにくくなり転倒が頻発する様になりました。

 

その辺りから彼が生きる気力を失っているのが伝わりました。生きる気力を失ってからの病態悪化は凄まじいスピードでした。

 

もう少し私にも何かできたのではないかという後悔もありますが、それよりも【人間は生きる気力を失ってはいけない】という事を実感しました。

 

ただ、感じていた苦しみは彼にしか分かりませんし、苦しみながら治療するくらいなら死んだ方がマシという気持ちもあったかもしれません。

 

生きるという意味を考えさせられます。

 

安楽死を認められていない日本。私たちはあらゆる方法を駆使してでも生きて欲しいと考えますし、延命治療が当たり前になっています。しかし、生きることが正義とは限りません。その点を彼が一番理解していたかもしれません。

 

辛い思いをして生きることは果たして正解なのか。病院で看護師さんやPTがよく言う「生きたかったけど亡くなってしまった人の分まで頑張ろうね!」という声かけは果たして適切なのか。

 

健康では無い長生きは辛いだけなのかもしれません。

 

生きること

 

それはとても難しいこと。